
ハンセン病患者・元患者の方々は、国の「らい予防法」による強制隔離政策の下、療養所という高い壁の中に自由を奪われ、社会からの深刻な偏見と差別に晒されていました。
戦時中、その「日常」に第二次世界大戦という「非日常」が重なります。
「戦争」という国家の危機と、「隔離」という国家による人権侵害。この二重の苦難の中で、当事者の方々は、何を思い、どう生き抜いたのでしょうか。
今回は、元患者の方々からの聞き取りや、療養所に残された記録の調査を通じて、この知られざる歴史の掘り起こしを続けてきた国立ハンセン病資料館の吉國元さんに話を聞きました。
(TBSラジオ「荻上チキ・Session」2025年8月5日放送分から抜粋、構成=加藤奈央)
※本記事で紹介する文献資料には、現代の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現や語句、差別的表現が見られますが、執筆当時の時代的背景と原典の資料的意義を考慮し、原文のままとしました。
――ハンセン病はどういった病気でしょうか?
吉國:人類の歴史とともにある病気で、古くは聖書や仏典にもハンセン病と思われる人々が登場します。しかし、長らく治療薬がなかった病気でもありました。日本では「業病」とか「天刑病」とされ、何かの罰として病気になっていると思われていました。
しかし1873年、ノルウェーの医師・アルマウェル・ハンセンが「らい菌」を発見し、ハンセン病はらい菌に起因する感染症であることがわかりました。1943年にアメリカで治療薬が開発され、今ではハンセン病は治る病気になっています。
――日本でもハンセン病患者は隔離されてきた歴史があります。こちらはいかがでしょうか?
吉國:日清・日露戦争の勝利を背景として、日本は近代化を目指します。そうした中で、放浪するハンセン病患者は「国辱」だとして、最初の隔離法である「癩予防ニ関スル件」(1907年公布)を定めて強制収容の対象とします。この法律は1931年に全国の患者を対象とする「癩予防法」に改正され、さらに戦後の隔離政策は1996年まで継続されました。
――戦後、日本でもハンセン病の治療薬が導入されました。それなのになぜ隔離が続いたのでしょうか?
吉國:治療薬は戦後の1947年頃に導入され、ハンセン病は治療可能になりました。さらに日本国憲法が制定され、国民の誰もが文化的で健康な生活を送る権利がある時代になりました。ハンセン病患者・回復者は憲法を根拠に、国に隔離法の改正を求める「らい予防法闘争」を行います。しかし、こうした運動があったにも関わらず1953年に戦後の隔離法が制定されてしまいました。
その背景には、戦後、ハンセン病の専門家が国会で「確かに治療薬はできたが、まだハンセン病は恐ろしい病気なので隔離の継続が必要だ」と証言したことなどもありました(三園長証言)。この専門家の意見を受けて、国民の代表である国会議員が改正法を可決してしまったのです。ハンセン病患者は戦前、「国辱」という理由で強制収容の対象になりましたが、戦後は「公共の福祉」という名目で隔離が正当化されました。
――戦中のハンセン病患者の扱いはどういったものでしたか?
吉國:1931年4月に「癩予防法」が交布され、同年の9月の満州事変から日本は15年にわたる戦争に突入します。この時代は、国のため「役に立つ身体」、つまり戦力としての身体が求められる時代でした。病気や障害のあるハンセン病患者は「国にとって有用ではない」ということで強制収容も拡大・強化されました。
一方で、「役に立たない」とされたハンセン病患者は、強制収容先の療養所が主導する戦争協力にも取り込まれていきました。療養所は患者側の「自分も国の役に立ちたい」という思いを利用して、療養所内の物資統制や食料増産に協力をさせたり、「国防献金」といった献金を強制したりしました。また、神社の礼拝とか宮城遥拝、君が代の斉唱、勅書勅語の奉読など国策に対応する取り組みも療養所内で行われました。
国が行った思想統制や管理は療養所にも及び、入所者による「戦争協力詩」も残されています。1944年3月に多磨全生園の園内誌に藤村詩朗という入所者が投稿した詩の一節を紹介しますと、「もつと直接お國の役に立ちたいんだ/俺の体では健康者の中へは行けない/併し普通の労働にはたへられる/自信はある」というものがあります。「自分は健康者の中には入れないけれども、お国のために役に立ちたい。こういった労働ならできる」と歌った詩が残されているわけです。
――ハンセン病患者や元患者と兵役の関係は?
吉國:「軍人癩」と呼ばれる、従軍中にハンセン病を発症した方々がいました。そうした方々は発症後、軍部によって差別をされ、戦中あるいは戦後にハンセン病療養所への入所を余儀なくされました。
例えば、立花誠一郎さんという患者の方は1921年に愛知県で生まれた方で、42年に陸軍航空隊に入営しました。満州国での従軍を経て1944年にニューギニア戦線でオーストラリア軍の捕虜となり、捕虜生活中にハンセン病と診断されました。すると立花さんは病棟から離れた別の場所に隔離をされてしまいました。
――戦争によってハンセン病の療養所はどういった被害を受けましたか?
吉國:例えば非常に激しい地上戦の戦場となり、20万人を超す犠牲者が出た沖縄には、国頭愛楽園(現在の沖縄愛楽園)という療養所がありました。沖縄に駐屯していた日本軍は、療養所に入所していないハンセン病患者を危険視し、そこで患者の収容を武力で行いました。その結果、国頭愛楽園では定員を大幅に超える入所者の数になりました。
愛楽園では米軍の艦砲射撃や空襲で亡くなった方は比較的少なかったのですが、一方で防空壕の中で亡くなる方が多くいました。防空壕は当時の園長が患者に掘らせたものでしたが、トイレも壕の中でせざるを得なかったので、衛生環境も非常に悪かった。また、定員を大幅に超える入所者がいらっしゃったこともあり、病気や食料の欠乏で栄養状態が悪くなって、生き延びるために掘った壕の中で亡くならざるを得ませんでした。
沖縄戦の関連では、1995年に糸満市に作られた「平和の礎」というモニュメントがあります。その平和の礎は沖縄戦で死亡した全ての人々、沖縄で亡くなった米軍の方も含めて追悼する目的に作られたものですが、長らく沖縄戦で亡くなった沖縄愛楽園と宮古南静園の入所者の刻銘が遅れていました
なぜかというと、基本的に刻銘には親族による申請が必要だったのですが、ハンセン病に対する偏見差別もあり、入所者の親族による申請が遅れていたからです。
沖縄愛楽園と宮古南静園の自治会が亡くなった入所者の刻銘を沖縄県に繰り返し働きかけたことで2003年に沖縄県は刻銘の条件を緩和し、地援団体からの申請も認めるようになり、結果としてあわせて410名の刻銘が実現しました。
――現在、国立ハンセン病資料館は「戦後80年―戦争とハンセン病」という展示が開催中です。来場者にどんなことを伝えたいですか?
吉國:先ほどお話した「軍人癩」の立花誠一郎さんは晩年、「心こめて平和祈念の碑を建てる「傷痍」われらの終わりの仕事ぞ」という短歌を残しています。軍人として国のために戦ったけれども、ハンセン病を発症したことで戦後は国の隔離政策下に置かれたという非常に苦難に満ちた生涯を送られた方でした。こういった人々がいらっしゃったんだっていうのを忘れないでおくことが大切だと思います。
立花さんのような方が最晩年、平和祈念の碑を建てると語っていること、この短歌一つに彼が込めたものをまずは受け止めて、その背景を知ること。そこが「記憶の継承」という大きな課題への第一歩になるのではないかと思います。
ギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」
ハンセン病と戦争に関して、「戦時下の療養所」「日本植民地下の療養所」「沖縄戦」などに関連する資料を展示。また、従軍中にハンセン病を発症し、ハンセン病療養所への入所を余儀なくされたハンセン病回復者の経験をたどる。国立ハンセン病資料館(東京都東村山市青葉町4-1-13)で8月31日まで。入場無料。月曜と、祝日の翌日は休館(月曜が祝日の場合は休館)。
よしくに・もと
国立ハンセン病資料館学芸員。ギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」の企画を担当。
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