
放送界の先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、テレビ草創期より「紅白歌合戦」「のど自慢」に携わり、多くのヒットドラマを生み、NHK会長も務めた川口幹夫氏のインタビューをお届けする。聞き手は、放送人の会会員でRKB毎日放送出身のドラマ演出家、久野浩平氏(故人)。
【写真を見る】放送界の先人たち・川口幹夫氏~「紅白歌合戦」、「夢であいましょう」、山田太一ドラマ~【調査情報デジタル】
NHKに入ったわけ
川口 放送界に入った事情なんて、就職先がなかったからですよ。昭和25年(1950年)に大学出たんだけど、当時はまだ放送なんていう位置づけがそんなに確立されてなかった。
新聞、雑誌とかの方が、文化的には知られてましてね。放送ってのはラジオしかなかったし、しかもNHKだけ。だから放送文化なんてったって、そんなに高い位置にあったわけじゃない。従って、僕がNHKを受けたのも、まったく偶然だった。
一番先に受けたのは朝日新聞、その次が毎日新聞。それから講談社で、その次がNHK。まず朝日は落ちて、毎日は三次まで行ったんだけど落ちて、講談社からは「二次試験に来てください」と言われた。それで行こうとしてたら、その日にNHKから「一次通ってます、来てください」と連絡がきた。じゃ講談社やめようってんで、やめたんだ。
当初はやっぱり、活字メディアに行きたいと思ってましたね。何しろ大学時代にやったのは歌舞伎ですから。歌舞伎で食えるはずがない。劇評なんかをやるのは東京新聞ぐらいしかないし。で、ま、新聞社かせいぜい雑誌社だなと思うのは当然ですよね。
当時のラジオは、まだあんまりみんなが聴く媒体ではなかった。その中で、劇場中継というのを時々やってたんですよ。僕はこれが非常に好きで、面白いなと思って聴いていました。それでパッとひらめいたのは、そうだ、放送に行ってみよう、そしたらラジオで劇場中継みたいなことをやれるかもしれない。まことに曖昧な、だらしのない理由で志望しちゃったわけです。
入ったらいきなり「福岡放送局勤務」という辞令をもらいましてね。福岡と聞いて僕は「しめた!」と思ったんですよ。何でかというと、旧制七高※時代に、寮の同じ部屋にずーっといた、いわば刎頸の友みたいなやつが、九州大学の医学部に入っていた。医学部ですから、こちらが早く卒業していて、あ、福岡ならあいつのとこに行ける、そんなことで意気揚々と福岡に行ったわけです。
※七高 現在の鹿児島大学の前身のひとつ。川口氏は鹿児島育ち
久野 研修期間とかなく、いきなり福岡に?
川口 はい、いきなり。少なくとも昭和25年はまったく研修なし。僕は「何でもやらして下さい」てなことを言った覚えがあるんですけど、それでラジオの番組を3年間、シコシコとやったわけです。
だから報道もやれば、社会的な番組もやる。ドラマもやれば──ラジオドラマやったんですよ。「のど自慢」みたいなものもやる。いろんなことをやって3年目にテレビ放送が始まったんで東京に帰された。「何で私が帰るんですか」といったら「君は使い減りがしないからいい」って。
テレビ放送開始の時には、まだ僕に辞令は出てないんです。で、東京にいた何人かの準備班の連中で放送を始めたわけです。当時はマイクロ回線なんかないから、福岡ではテレビ見られなかったです。
テレビはドタバタで始まった
川口 そんな状況ですから、まあ滅茶苦茶なスタートでしたね。そもそもNHKは、テレビ放送をそんなに早くやるつもりはなかったんですよ。ゆっくりやるつもりでいたら、NTVの正力さんが、ものすごく…あの人はほんとに確信に満ちてたと思うんだけど「テレビは絶対に新しいメディアの代表になる、だから少しでも早くやった方がいい」ってんで、彼は政財界に顔が利いたから、さあっとまとめて、NTV発足※という方向を打ち出したんですね。
※昭和27年(1952年)7月31日に日本テレビ放送網(NTV)が初のテレビ局予備免許を得る。NHKが予備免許を得たのは同年12月26日。
それでNTVの放送が昭和28年(1953年)の8月にスタートするという。これにはNHKも慌てたわけです。放送界では先輩だと思ってるから、おれたちの前に民放にやらせてたまるか、それ急げってんで、ものすごい勢いで準備を始めて28年の2月1日スタートということになったわけ。2月と8月でちょうど6ヶ月の差がある。まあ、老舗の面目を保ったというところでしょうね。
久野 そのとき何人ぐらいで?
川口 何人いたんでしょう。人数を調べたことないですけど、全部集めると、制作側つまりプロデューサー、ディレクターというのが、せいぜい50人じゃないですか。
久野 報道関係は?
川口 報道はいません。だって、やる材料ないんだもん。日本ニュース※かなんかを買ってくるんですもの。だから当初は「テレビ」イコール娯楽ですよ。
※戦前に設立された国策ニュース映画の制作会社。
当時、昭和28年のテレビってのは、児戯に等しい、児戯以下ですね。とくにNHKだけでやってた2月から8月までの6ヶ月間はもうほんとに、それこそ火事場で、何やってるのか本人たちもわからないでワーワー言ってる状況でしたね。
NTVは実にきちんとしていた
川口 NTVの放送が始まって何よりもびっくりしたのは、時間が正確なこと。NHKの方は、時間がまったく不正確でね。たとえば12時に用意ドンで始まる、はずでしょう。ところが準備ができてないから、まだ無理だとなると「しばらくお待ちください」っていう表示が出る。さらに番組が終わっても、その次の番組がパッと始まらない。また「しばらくお待ちください」が出て、それからやっと始まる。ほんとに時間が滅茶苦茶でした。
僕は3年間ラジオ番組をやっていて、ラジオはきちっと時間通りにいくんです。それが放送というものだと思っていたから、東京に来てびっくりしたわけです。東京に来て「何だ、テレビってのはこんな呑気でいいのかいな」と思って、あ、これはいいなと思った。僕はずぼらだから、ずぼらなほうは大歓迎なんですよ(笑)。
それで半年過ぎた8月の28日にNTVの放送が始まった。僕らは、どうせ周章狼狽して、ヒーヒー言って途中でぶった切れて「しばらくお待ちください」が出るだろう、ざまみろ、と思って見てたんだ。
ところが、キューッと時間通りにきれいに出るんですよ。そしてコマーシャルがタッタッと流れる。コマーシャルは何より大事ですからね。そのコマーシャルをきれいに出すためには、そのほかの時間をきちんとしなきゃいけないと。逆の発想でNTVははじめからきちーんと時刻通りの番組を出していた。
それを見て我々はひっくり返って驚いたわけです。するとさすがに、当時のテレビジョン局長という人から通達がきて「明日から全部既定通りの時間で出せ」という。「そんなこと出来るかよ」と言うけれど、「民放がやっていて、お前たち出来ないはずがない」となる。
それで、あっという間に良くなったですね。やっぱり時間に対する観念は、みんなラジオで経験があるから、やろうと思えば出来るわけですよ。ただやんなくてもいいと思っていて、非常にのんびり杜撰に構えていただけでね。これはやっぱり草創期としては、おもしろい挿話ですな。今では考えられませんよ、ええ。
久野 映像というものについては、その時にどうお考えでした。
川口 歌謡曲と民謡をやっていてつくづく思ったんだけど、ラジオだと声しか出ない。けれどテレビという媒体だと「人間が出る」と感じたんです。たとえば、三味線を弾いてる人のポタポタ出る汗が、その人の人間性をある程度表現しますわな。それから歌い手だと、年輪を刻んだ方とぽっと出の若手とでは、まったく違った顔をするわけですよ。それで歌うから、テレビってのは人間を出す媒体だなと思った。
紅白歌合戦はじまる~TV中継のカメラは2台!
川口 「紅白」に話をもっていくとね、あれは昭和26年(1951年)にラジオでスタートしたんです※。僕はまだ福岡にいて、1月3日の放送を聴いて面白いなあと思った。生放送の中で突如アクシデントが起こるわけですよ。そのアクシデントをうまく取り込んで、見事な構成。あ、この番組なら当たるなあと思っていました。
※ 1951年1月3日第1回放送はラジオのみ、1953年1月3日の第3回はラジオ放送とテレビ試験放送、同年12月31日の第4回はラジオ・テレビ同時放送(この回から公開放送)。以降、大晦日の公開放送として定着した。
当時私は福岡ですから、誰がやってるのかなと思っていました。それが28年(1953年)の4月に東京に帰ってきたら、近藤さん*という人が夏頃にノコノコ出てきて「テレビで紅白をやらないかね」とこう言うんですよ。それで「え?」っと…。
※近藤 積(つもる)NHK音楽番組ディレクター
久野 近藤さんというのはラジオの方ですか?
川口 そうそう。この人はテレビをやったことは一遍もない。ラジオの大ベテラン。それでその人のアシスタントについて初めて「紅白」をやったのが、昭和28年の12月31日。
久野 そのときはテレビですか。
川口 テレビです。ラジオでメインをやって、それをテレビが受け止めるってやつね。全体の責任者が近藤さんで、テレビの担当が僕の先輩だった福原さん※という人。この福原さんのアシスタントをやってた川口は従ってテレビ関係のことを全部やらされていた、というふうになるわけですな。
※福原信夫 NHK音楽番組ディレクター。近藤、福原両氏とも、戦後の音楽番組の黎明期に活躍
久野 カメラは何台ぐらい?
川口 2台。
久野 AカメBカメで?
川口 AカメラBカメラ。今ならもう笑いものですよね。
久野 どういうカメラですか。ズーマー(画角を無段階に調整する装置)はついてない?
川口 ええズーマー無いです。しかもそれで2台だけ…。昔は、2台のカメラをスタジオの中でどうやってうまく扱うのか、それにはカメラのケーブル捌きってやつが非常に大事だったり、そういうことを一生懸命考えるのが、アシスタントの仕事の第一でした。だから歌合戦の会場だった日劇でも、なにしろ中継カメラは2台しかないから、それをうまく使ってね、ただ交互に切り返していくだけですけども、またそれでよかったんですよ。
いまも続く「のど自慢」のこと
久野 NHKの音楽番組として、もう一つ「のど自慢」ですけど。
川口 「のど自慢」※ は、昭和21年(1946年)の1月にもう始まってるんです。
※「のど自慢素人演芸会テスト風景」と題して1946年1月19日にラジオ放送開始。翌1947年7月6日から「のど自慢素人演芸会」となった。
久野 え、21年?
川口 うん。終戦直後ですよね。もちろんそれは僕は知りませんよ。調べてみると、21年の1月に、三枝健剛さん※ て人がいて──この人は、三枝成彰、健起兄弟のお父さんです。
※三枝健剛 NHK音楽番組のディレクター、本名三枝嘉雄(1910〜1997)。音楽家三枝成章、健起兄弟の父。
その人が「のど自慢」やろうってことになった。それで、復員したばかりの兵隊をつかまえて歌わしたわけです。
歌い終わるとアナウンサーが「はい、ご苦労さまでした」「ありがとうございました」と言う。するとね、みんな合格したと思っちゃうから帰らない。それで三枝さんが発明したのが「鐘」です。1つ鳴ったら不合格、2つ鳴ったらまあまあ、3つが合格の鐘というふうにして、これをやったんでスムーズになってきた。
みんな自己表現というものに飢えていたわけですな。だから初めてですよ、マイクロフォンを素人に開放したのは。
素人という点では、もう一つ「街頭録音」 というのがあった。いろんな人に意見を言わせるんです。一方の「のど自慢」は歌。両方とも、戦前の閉塞的な、あんまり物も言っちゃいかんような雰囲気の中で「お国のため」とか「天皇陛下万歳」としか言えなかった日本人が、戦後になって、にわかに自由を獲得した。その発現が「街頭録音」や「のど自慢」の鐘になったと、僕は思うんだけど。
テレビバラエティの時代
川口 いわゆるバラエティについて僕が記憶しているのは、「光子の窓」※がNTVで出てきて、それからNHKで「夢であいましょう」※※が始まって、その頃からテレビにおけるバラエティの存在が非常に注目されたと思うね。
※「光子の窓」草笛光子がメインのバラエティ番組(1958年~1960年)。演出、井原高忠。日本の本格的バラエティの嚆矢と言われる。
※※「夢であいましょう」NHKのバラエティ番組(1961年~1966年)。永六輔の構成、中村八大の音楽で「光子の窓」とともにバラエティ番組の原型となる
僕は「夢であいましょう」には途中から参加した。5年続いてんだよ、あの番組。ただし僕が承ってからは、たった2年半しか続いておりません。
なぜ続かなかったか?昭和38年(1963年)から翌年にかけて、にわかに<まじめ派>が、あっちもこっちも起こってきたんだ。「何だけしからん、あんなふざけた番組をやりやがって」というのが、NHKの中にもありましてね。それでそういうものを粛清するために、派遣されたお方がいるんだよ。NHKもすごいですよ。「オレはあんた方を粛清するために来た」と豪語するんだから。その方が芸能局の次長になって来られてね。
僕はほんとにまいったよ。「夢であいましょう」の台本ね、これは実話だから隠さず言いますけど、永六輔が書いてきた台本を見ると、「マルクスいわく」と書いてあるんだ。もちろんパロディですよ、マルクスがそんなこと言ったかどうか知らない。こういうふうにひねってマルクスが言ったという設定。するとそのお方は、「チーフプロデューサーは誰だ、川口?呼んで来い」。それでノコノコ行ったら「マルクスは、こんなこと言っとらんよ」と。
「あ、そうですか」
「僕は京都大学の経済学部出身だからね。マルクスは詳しいんだよ」
「は?僕は文学部ですから何にも知りません」
「こんな事実と違うことをね、バラエティといえども書いちゃいかんよ」
「どうしてですか。だってバラエティってのは、パロディなんですから。パロディってのは茶化すから面白いんです」
それで、ここをカットしろというんです。こっちは「カットしたくない」と頑張るわけ。そしたら「カットしろ。業務命令だ」とおっしゃる。
「は、業務命令というと、もし違反したらどうなりますか?」
「君は辞めるんだね」
「あ、そうですか。僕はまだ辞めたくないんですけど」
「しかし業務命令に違反したら辞めなきゃいけない、というのは鉄則だ」
結局「あ、そうですか…」と言って部屋に帰ったんです。その次長のいる部屋は別ですから。そしたら永さんが来てたんで「永さん…俺辞めるかもしれんよ」。
「どうしてですか?」
「だって、あなたが『マルクスいわく』と書いたもんだから、それを削る削らないで上司とケンカしてんだよ。おれはどうしても削りたくないからケンカして、やめる」
まじめにだよ。ほんとにまじめな顔して言ったの。そしたら永さんがびっくりして「冗談じゃない。あなたが辞めるなんて冗談じゃないですよ。僕が書き直します」といって、すぐ書き直しに応じてくれて、ま、一件落着になっちゃった。
ドラマ部長時代の愛すべき破天荒な上司のこと
川口 大竹しのぶをテレビ小説に起用した時の話なんだけど、彼女はまだ17歳かなんかで、かわいい子だったんだよ。演技力抜群でね。こんなすごいのか、とわれわれは驚嘆していた。それで彼女を起用することに決めて、上司のところへ写真だけ持ってって「これを今度のテレビ小説の主人公にします」と言った。
そしたら、当時の上司の堀総局長※が「何だ、このネエちゃん。こんなのが主役でできるか」なんておっしゃるんだよね。ぼくはムカッとして「それは堀さん違います。あなたね、写真だけ見てものを言ってるから。われわれはちゃんと演技をさせてそれを見て、テレビへの柔軟性もみて、これは主役に絶対いいと思って起用するんだから、ここは私どもの目を信頼して下さい」と言った。
※堀 四志男 報道畑出身の放送総局長。「ニュースセンター9時」の生みの親のひとり。
それでまあ「しょうがねえな…いいよ」ということになった。
それが、第1回の放送が終わったら、彼は深々と私に頭を下げたんです。「川口君、俺が悪かった。俺の目は節穴だ。あの子はいいなあ。大竹しのぶってのは大物だなあ」って言うんだよね
久野 謝れるところがいいですね。
川口 そうです、そうですよ。特に日本人の男性は自分の沽券に関わるから、謝らずに屁理屈をつけてああだこうだというもんだけど、あの人はそんなことは絶対に言わない。言わないうえにね、大きな体でしょう。身長180センチぐらい、体重80キロぐらい、もっとあったかな、その大きな体をパーッと縮めて…。「川口君、俺が悪かった」。それはね、愛すべきキャラクターですよ。
そこをまた、僕は小器用に利用してね、まんまと予算をせしめたことがあるんですよ。ドラマ部長の頃、「お前のところはあんまりいいドラマを作らねえな。俺は民放のドラマの方がよっぽど好きだよ」とおっしゃるから「堀さん、そんなことおっしゃるなら、私に金を下さい」。
「何だよ?」
「2000万円下さい!」
「何すんだ?」
「4人の脚本家に500万円ずつ先渡しして、それで書いてもらうんです。今の時代、いい作家はそうたくさんいないから、できる作家には思い切って先渡しする。500万円あったら、作家も安心して書けるから、そういうふうにしたいんです」
「合わせて2000万円か」
「はあ、そうです」
「よし」
ってんで、すぐ経理担当を呼ぶんだよな。
「…川口の言うとおり、2000万円出してやれ」
それで、大作家でもない、まだ新進作家ですらない、でもこれから伸びてくると感じていた4人の作家にお金をつぎこんだ結果、グッと良いドラマが出来たと今でも信じてます。その時の作家4人が誰か、覚えてるけども言わない。これを言うと、何だあの時はそういう作家だけに渡したのか、俺には回ってこなかったぞ、という人がいるからね。その人選はやっぱり僕の好みですから。
久野 やっぱりいちばん最初に作家を大事にする?
川口 そうですそうです。あと僕はもう一つ、作家のシリーズものをやりたかったんです。ドラマ作家というのは、名前だけは出るけど、いつもタレントなんかの下に甘んじてるでしょう。だから「山田太一シリーズ」※ とか、倉本聡のシリーズとか、そういう作家の名前を冠したシリーズを作りたいと思ったんです。
※土曜ドラマ・山田太一シリーズ「男たちの旅路」(1976年~1982年)など。
それは実現しました。だからこの二つは、私がしたことの中では、ちょっとユニークで、しかも効果があったクチでしょうね。作家もそういうふうにしてやると非常に感奮興起しますよ。
久野 そりゃそうですね。安心しますしね。
川口 安心する。さらにそこで名前が出ると、必然的に民放にもパーッと売れるからランクは高くなるしね。事前に手を打ってた500万円が利いてくるわけですよ。
外部プロダクション発注事始め
久野 番組制作を外部に開放なさったのが川口さんからですよね。
川口 そうです。だって、NHKのドグマは「NHKの人が一番いいドラマ、番組を作る」というドグマですよ。そんなことはないじゃないですか。制作会社というものが出来てから、彼らが作る番組のレベルは相当高いということを僕は確信していたんです。それでNHKでも外に制作を発注して開放しなきゃと思っていて、テレビマンユニオンの、この前亡くなった萩元さん*と話をして「萩元さん、NHKがあなたがたに番組を委嘱したら、受けてくれるかね」ときいたら「喜んでやりますよ」と。
※萩元晴彦(1930~2001)TBS出身。1970年に制作会社「テレビマンユニオン」を村木良彦(1935~2008)、今野勉(1936~・放送人の会・現会長)らと設立。後述する大原れいこも創立メンバーの一人。
ただ当時は、そう簡単に行かないんだよね。第1回めは失敗しちゃったんだ。何かというと、小沢征爾さんが棒を振って、中国でブラームスをやるというんですよ。ブラームスが中国で鳴り響いたという番組をやりたいと萩元ちゃんがいうから「いいねえ、やりましょう」と。
そう言って帰ってきて、制作局長だから偉いんだけど、みんなに相談したら、「そんなのだめですよ。テレビマンユニオンなんかまだ力ないですよ」てなことを言うんだよねえ。それでポシャっちゃった。そのときまだ早かったと思うのは、NHKの中で、いわゆる「外注問題」というのがあった。堀さんも、おそらくそのことを気にしたんだろうな。堀さんに持ってったら「まだ早いや、NHKの番組を外注するのは」とおっしゃってポシャりました。
結局この企画はテレビマンユニオンが作ってTBSで放送した。大原れいこさんの演出で「北京にブラームスが流れた日」※ というタイトルだったと思う。NHKでやるはずだったのにな、と思ったけども、そういうことがありました。
※TBS、1978年7月23日放送。
僕はそれ以来ずっと、民放系の制作会社に番組を作ってもらって、NHKで放送するのは絶対良いことだと確信してたんです。それで、会長になった時に断固としてやるぞと言ったら、会長はやっぱりいちばん偉いもんで、ああいいですよとなって…。
僕が民放の社長だったら、視聴率のシの字も言わない社長になりたいな。それからNHKでも、いわゆる制約はないんだから何でも出来るはずで、僕がかつて言ったように、タブーだろうと何だろうと面白いと思うものをやってみろ、という積極的な仕掛けをやってみたい。そうするとテレビ屋は、それぞれ自分のセクションで「よし、じゃあ、やってやろうか」と思うんじゃないかと考えるんだけど。
この頃の世の中はあまりにも、いろんな点で制約が多くなり過ぎた。多くなり過ぎてみんな結末がわかっちゃう。こうやるとこうなる、ここでこうやるとこういうことが起こってきてこうなる。やっぱり30年40年と経験してると、みんな分かっちゃうでしょ。経験してるだけに、どこかで控えてしまうとこがあるんじゃないですか。
何もなかった昔は、それが分からねえから、やみくもに飛び込んでいったんだけどね。今またそういう時代じゃないでしょうか。うん。僕はもういっぺん、制約なしで何でもやってみろということを、民放もNHKも言うべきだと思いますね。そうしたら面白いですよ、もうちょっと。
<本インタビューは、2002年3月1日収録>
川口 幹夫(かわぐち・みきお)氏の略歴
NHK会長(1991年~97年)、放送人の会初代会長(1997~2001)。
1926年、東京生まれ、幼少期を鹿児島で過ごす。旧制七高(鹿児島大学の前身)を経て東京大学文学部卒。
1950年NHK入局後、福岡放送局赴任。その後一貫して音楽・バラエティ畑を歩む。「紅白歌合戦」、「夢であいましょう」などのディレクター、プロデユーサーを務める。
1970年ドラマ部長に就任、「大河ドラマ」「連続ドラマ」などで新進気鋭の作家を起用し話題になる。また「ドラマ人間模様」枠では「夢千代日記」、「あ・うん」など放送史に残る名作を送り出した。
1986年にNHK交響楽団理事長に就任ののち、91年第16代NHK会長に(15代は島桂次氏、17代は海老沢勝二氏)。会長時代にはラジオの24時間放送を実施し「ラジオ深夜便」の充実を図った。
2014年11月没
【放送人の会】
一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体。
「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めている。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしている。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版Webマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。
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